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yuuの一人芝居

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文学を精神の主軸にする愚かしさ…。我が人生を振り返って…。つづく

文学を精神の主軸にする愚かしさ…。2016/8/17

 何も宮武外骨や坂口安吾をまねて気取っているわけではない。
 私は小学生のころから小説家になりたいと密かに思っていた。その割に殆ど勉強はしなかった、が、好奇心は人一倍旺盛だった。勉強に拍車がかかったのは中学三年の二学期だけ、受験のための勉強をした。家は戦後に潰れていたので貧乏と友達関係にあり何時もお腹をすかしていて、勉教ところではなかった。
 この敗戦後、日本の人達は、特に少年は草野球に映画少年で金と時間があればそれに没頭していた。私もその例外ではなかった。其の事が夢をつぐむための大きな基礎となっている事を今思い返されている。
 母が高校に行けなくてもその為の勉強だけはしていて損はないのではないかと言うので、ここは親孝行かと思い少し勉強に時間を費やした。楽に受験してもどの学校へも入れる学力は付いた。一番金のかからない、それを第一義してそれに該当する県立の高校へ入学した。高校時代には、卓球部とアルバイトに時間を使いここでも勉強はできなかった。
 物書きになる夢は捨ててはいなかった。が、小説を読むでなく、書くことも苦手であった。一番最初に読んだのは、友達が面白いという松本清張の「点と線」を進められて読んだのが初めてであった。読んでこんなに面倒くさい物はごめんだと思いつつも最後まで読ませられた。だが、人が読んでよかったという事に関心が沸いていた。
 高校時代の三年間で三百日はアルバイトに通い、後の時間 は卓球に明け暮れ映画館に通っていたから本など読む時間はなかった。
 その時には私がなにになりたいのかと言う事はすっかりと忘れていた。
 なにをしょうか、就職の時にそこで迷った。その時に幼い頃の夢を思い出した。
 本は読まなかったが十五歳から社会に出て多くの人に出会い、色々な知識を教えられ少しませた餓鬼だった。
 就職は比較的に時間の余裕のるところを選んだ、と言うのも、今までの遅れを取り戻す必要があったという事だった。
食べるための金の他は総て映画と本代に変わっていた。
 高校三年生の時に母が倒れ、中風になり後遺症で半身不随になっていた母の面倒を抱えての生活の中で本を読み真似ごとで原稿用紙の桝目をうずめていた。
 其の頃、県下随一の同人誌の会員になった。そこに何作か作品を発表し中央の評論家の目に止まり批評を頂いたことが励みにもり、また、天狗にもなった。
 そこで色々の人から文学とは何か、という下地を教えてもらった。
 西欧の古典、中でもサルトル、ジィド、キールケゴール
 其の本を沢山進められこれを読まないと時代に遅れると進められた。まるで猿飛、霧隠の事かと見まがうほどであった。
 私は小説に最も大切な台詞の勉強のためにその筋の専門学校に籍を置き勉強した。
 当時は巷に文学青年たちが跋扈していた。
 今これを書いていてその数はどれほどなのかと言う事を知らない。
 其の時代を過ごして同人誌を創刊し編集に携わり沢山の人達の生の原稿を読み良し悪しは別にしていい勉強をさせてもらった。読んで違和感は確かにあった。なぜ今これを書かなくてはならないのかと言う疑問だった。全国には沢山の文学青年がいたが見たもの感じたもの以外の事を書く人は少なかった。何のためにサルトル、ジィド、キールケゴールを読んだのか、彼らはこのようなテーマの作品を書けと言っているのか、それらは頭の中に人間の不条理を書き連ねていただはないか、なのに書く者はそれに反して日常を書き、男女の思い、社会の不安にとどまっていた。
 みんなの原稿を読んでいて気づいたのはテーマが文体を作ってくれること、だが、どのようなテーマでも文体は変わっていなかった。また、これだけは書きたいと言う希有がなく、そこに書く必然を見出せなかった。
 今思うとそれが限界のレベルだったと思う。
 てにをは、はとがの使い分け、助詞、助動詞、形容詞、動詞の使い分けは、句読点句点は文章の中に文法に沿って書かれているが、何か無味乾燥に感じたのは、書きての熱い思いが伝わってこないと言う事に尽きていた。
 私は、こじんまりと文法どうりの文章に拘らずに多少の間違いも無視して書き手の情熱が心に響く作品を取り上げ雑誌に載せた。
「女にもてたいから作家になるんだよ」と言う人達もいたがそれを私は良しとして其の倫理に反することに納得していた。物書きはそれぐらいの自己主張が欲しいというものだった。
 書くと言う傍らで、トルストイ、ツルゲーネフ、チェホフ、ドフトエフスキー、マルクス、スミス、ヘーゲル、カント、ニーチェ、ショウペンハウエル、デカルト、片仮名の外国の物を乱読していた。それらは文明社会がもたらした秩序の崩壊を書いていた。
 日本の作家の物も片端からどの作家と言う事も無くあさっていた。そこにはなにを書けばいいのかと言う作者の視点を教えてくれるものが多かった。
 それは物書きの生活と言う問題だった。其の生活の場でどのように生きるかが重要でそこに書くテーマが見えると言う事だった。
 菊池寛は文学より生活第一と言う言葉を吐いている。それは食べる手段を優先しろと言うものだった。讃岐の高松藩の下級武士の出の彼はまず腹をくちくする事の必要性を書くのは至極もっともと言えた。
 彼の「無名作家の日記」を読めば心のいらだちが手に取るように分かる。芥川や久米や松岡らが先んじて文壇デビューをしているなかで経済的な理由から東大を避け松岡の支援を受けて京都大学へ通う彼の心中はただいらだちと自虐の繰り返しであったろう。そこで財力の重要性を感じ取った。
 彼は文学よりは生活を先に持って行って、それから文学だと言う考えにたどりつくのだ。それを公然と言ってはばからなかった。これは今までの作家にはない、一種の泣きごとだったのだ。だが、彼は作家になってもそれを一貫して守り通している。文芸春秋を創刊し、後に代議士に立候補と言う事もその底には生活第一と言う理念が貫かれているものだ。
 芥川の考えとはまるで真逆である。久米や松岡とは相いれないものだ。また、太宰、坂口とは隔世の感がある。
 菊池のこの考えは戦後のと言うものではなく、まず家庭を守ると言う概念から生まれ、それを貫き通した事だ。
 地方の文学青年には果たして其の生活と言う理念はあったのかと言えばない、行き当たりばったりの生き方のなかに文学を求めている点が文学を曖昧にしているというよう。
 まあ、持ちこまれる、送ってくる原稿を丁寧に読むことが私の務めとしていた。
 執念と狂気を持っている人達は何人かいた。あまちょろい現実の風景は書かなかった、その風景の後ろになにがあるのかを書き込んでいた。それは物の書きには一番重要な視点だった。それこそ書き手に執念と狂気を感じるときだった。まるで原稿用紙が熱を帯び汗をかいているような錯覚に陥ることもしばしばだった。
 だが、それらの書き手は賞を貰うと文学の世界から遠ざかって行った。彼らはそれを出発点とはしなかった。それを飯の種にしようなどと考えていなかった。
「文学で飯を食うつもりはない。私が目指したのは文学をすることで人間とは何かを学ぶことを第一義としていた。文学に関わりおさめた物をこれからの生活に生かす、それを他人とのやりとりの中で生かす、そのために文学を志したのだ」
 彼らは文学を通して、それに関わることで人間学を捕まえようとしたのだ。賞と言う一つの区切りで彼らはそれを超えたものを手中にしたのだ。
 後に誰かが言った言葉、
「文学など男の仕事ではない」
 文学は人間の成長の上の通過点とした彼らの言葉には驚いたが、今になってそれは的を得たものであるという認識を持つに至っている。文学と言う精神の主軸で到底人間の本性など書き現わせないことが分かり始めて、彼らの決断と離別を妥当なものとしてとらえることが出来た。
 当時から、今の文学の不毛の予兆があったと言えよう。
 私は小説を書きながら、戯曲文学へと舵を切った。
 浅草の軽演劇、ストリップ小屋のコントなどを見てそれを心に蓄えた。また、少し足を延ばして新橋演舞場に通い新派の芝居に触れて、何か心が落ち着くのを覚えた。其のコメの演劇と言えば外国の戯曲を借りての公演が多かった。人間社会の悲鳴がそこで演じられ自虐史観の物が幅を占めていた。
 新派の劇が心に届いたのは、打ったのは明治からの日本人の心を演じていることに魅かれた。私はすぐにそこの北条秀司さんの雑誌に参加してより深く知ろうとした。新派には後に時代小説家になられた池波正太郎さんや脚本家の本多英夫、高橋玄洋さんなどがいた。それらの人達の書く姿勢を自分の物してと欲した。


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